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2007年8月12日 (日)

『BANANA FISH』の一気読み

いい年こいて、何やってんだか・・・。

199沿いのレンタルヒデオ屋がコミックレンタルを始めたものだから、結婚してから妻に冒頭だけ読ませてもらって以来展開と結末が気になってしかたがなかった吉田 秋生作のバナナフィッシュを全部借りて一気読みしてしまいました。

面白かったですね。よくできた「青春物語」ではないでしょうか。走りながら考えて作っていく連載コミックにありがちなインフレ傾向はこの作品にもあるみたいですが、そんなことよりキャラの瑞々しさがすごくいいですね。で、この年で読むと、パパ ディノ の歪んだ愛情がなかなか痛々しいです。

悪とはいえ全てを与え譲ろうとする巨人でありながら、徹底的に嫌悪され、無力な異邦人のひたぶる誠実をふたなき宝として、彼を守るために命を捨てることも厭わない不世出の天才である最愛の主人公に敵として対峙し続けて、けっしてその傲岸な姿勢を崩さない、というのはなかなか良いおやじ殿ではないですか。

それと、奥村英二という(申し訳ないが何の役にも立たないが)アッシュが愛して止まぬキャラは、日本人の考える対米国スタンスの理想なのかもしれないなぁ、とか読んでいて思いました。

でも、それなら、最終巻の最後に収録されている「その後」のストーリーである「光の庭」の中で、彼がアッシュの写真を撮っていた、というのは私は今一つなっとくできないですけどねぇ。

ストリートの悪たれたちの慈悲深く恐ろしい王にして、その自分の姿も血まみれの手も、心の底では否定している叫びを押し殺し続けているアッシュ・リンクスが唯一心を開き年相応に戻って本気で泣き笑う無垢の権化というべき相手が、写真機取り出して撮影していては変でしょう・・・。
カメラを持ち出し、構図を決め、撮影する。これって、強烈な作為ですから・・・。

撮りたい、その瞬間の映像を残したい、というのは、「それをしなければ気がすまない」という欲であり、強烈な業です。とても、無垢と程遠い。でも、それをしなければやまじ、息をするように、食べるようにそれをする、という本能みたいなものって、ある人にはあるんですよ。

そういう人は熱くあるべき人生の交歓の場で、「常にその様を冷ややかに眺める部分が自分の中にある」こと、自分はその感動の輪を外れた他人であることを「良い作品」を欲しいために選らんでいるわけで、そんなヤツ相手にアッシュ・リンクスという主人公が心の鎧を脱ぐことはないと私には思えるのですが・・・。
彼(奥村英二)を文学者にした方がまだよかったかも。もう少し昔なら、そういう設定にしていたのかも。とか思いました。
作為のアクションを「その場」で必要な写真やと、思い出というフィルターを通しても作為が可能な「文」との違いってやつです。
でも、「文」というものに、きょうびリアリティが担えないのかもなぁ、とも思うのですが・・・。

なんて、ね。酒飲みながらうだうだしています。(なにやっているんだか)

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