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2009年2月28日 (土)

部崎灯台の行ったの続きと、歴史のIF話-もしここまで丸十時の馬印が立っていたら・・・の空想-

部埼の灯台の所に、清虚さんの燈明の記念碑みたいなものができていました。

部埼については、昔、仕事で書いた紹介をこちらに置いてますのでご覧ください。
http://www.mojiko.com/pdf/for9910.pdf
因に、7年前の灯台とか清虚像の様子はこちらにあります。
上記の10年前の画像では折れていた像の松明が修理されているのが分かると思います。
最近は顔も奇麗になったそうですが、足下まで行く事がなくて未確認です。(先日は潮が満ちていて近づけませんでしたし)
なお、この清虚像は祈っても顔色を変えて歩き出して悪い大名を懲らしめることはありませんし、足下から火を吹いて自称"人工衛星"を撃ち落としに飛び立つこともありません。至って平和な像であり、この辺りの景色は海を含めて、ほんと変わらない姿です。
(もっとも、裏手の山は採石場としてどんどん削られて半球状ですし、道路ももはや太刀ノ浦方面と通じているも同然の状態で、昔ほど陸の孤島ともいえない状態です。このあたりは、あと百年もしないうちに田野浦から連なる平野になるかもしれません・・・。)

それはともかく、「へさき」って地名なのですが、部埼、部崎、部先、と色々表記があります。一体正しくはどれなんでしょう・・・。実はよく分からないです。
語源は間違いなく船の「舳先」のことでしょう。実際、島としての九州が本州と向かい合う先端になりますから。

で、最近、前にちょっと書いたIF話なのですが、"戦国末期、島津が企てた九州全制圧が成功し、ここ(部先)まで丸十時の旗印が立ってしまったら、豊臣秀吉率いる九州征伐はどう推移しただろう?"ってなことを時々考えています。

史実では、高橋紹運が老練な読みで遅延戦闘を行い、岩屋城に玉砕して足止めしたりで豊前一国ほぼ丸々確保できて九州征伐が始まったのですが、もしこんな大きな橋頭堡がない状態で、豊臣諸軍は敵前上陸をしなければならなかったとしたら、何処がその場所となり、どういう経緯を経ただろう、とか、ちょっと趣味レーション(?なんだこの変換は^^;)を考えると面白そうかな、と思っています。

でもねぇ、圧倒的に「知らない事」が多すぎて、空想膨らまないのですよ。
当時の日本の海上輸送能力とか、野戦築城能力とか、考えようにもそういう基礎になる事、知らなすぎることに気がつきます。


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